桜橋の少し下流の犀川右岸、手洗い場の横にひっそりと、この碑が建っています。杉原竹女と詩校の俳句が2句ずつ刻んであります。標題の句は竹女の句です。竹女は詩校の母親で金沢の人で雑誌「あらうみ」を主宰されたそうです。
『北國新聞縮刷版 昭和51年3月号』の「わが半生記 杉原竹女」によれば、「18年4月、あらうみ百号記念大会が兼六園で開催され、5月には東京の上野公園で小松月尚先生以下15人が、そろって上京して高浜虚子、星野立子親子の両先生をはじめ、ホトトギス同人の方々を招待して句会を開くことができたのです。同人の浅野白山師(高松町出身)のあっせんでした。詩校も京都よりはせ参じ、行を共にしたのでした。 (中略) 11月には虚子、立子両先生を金沢にお迎えして、竹女居にて句会の翌日、山中温泉へご案内。その夜のよしの屋の宴の場面が、虚子の小説『虹』で有名です」ということです。
この記事から、竹女さんの活躍が目に浮かぶようです。また、調べてみたら、県立図書館に、杉原竹女句文集、昭和44年出版、あらうみ創刊三十五周年及著者古稀記念出版の本があり、貸し出していただけるようです。機会があれば一度読んでみたいと思います。
そして、この碑の裏側には竹女は昭和53年に亡くなられたと、そして、息子さんの詩校さんは昭和19年、サイパン島で戦死されたと書いてあります。新聞の記事の翌年に詩校さんが戦死されたことになります。そして、竹女さんは息子さんのこの2つの遺句をどんな気持ちで選んだことでしょう。
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