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 熱海と三島の中間あたりにある丹那断層公園に行ってきた。「丹那」といえば、私の小さい頃、丹那トンネルがすごく難工事であったことや日本で有数の長いトンネルだったことを教わった。その丹那トンネルとこの丹那断層が交差している。

 写真の黄色が断層のライン。相対的に言うと、上の地面が左へ、下の地面が右へずれたという。だから、一直線だった石垣が断層のラインで約2mずれている。つまり、断層で横に2mずれた。その北伊豆地震から約90年もたっているので、別に断層の線がくっきりみえるわけでもなく、溝があるわけでもない。熱くもなければ普通に草が生えている。

 ちょうど丹那トンネルの工事中にこの地震が起きたらしい。また、工事でこの辺りの土地の地下水が大量に抜けてしまい、地域の方はこれまでやっていた稲作やワサビ栽培ができずに、酪農などの産業に転換をせざるを得なかったという。自然と文明そして、そこに生きる人間の壮絶なる戦いが垣間見える。

 駐車している車は私の車一台となり、夕暮れも近づき、公園は静かになってきた。断層のラインをじっと見ている私に、先ほどまでトイレのあたりにいたおじさんが声をかけてきた。2ⅿのずれについて説明してくれた。お蔭でよくわかった。たぶん、この地域の方で、工事や地震のことを知り、そして産業の転換を体験した人だと思う。こんな人が次の世代にいろんなことを語り継いでいってほしい。

 
 
 

更新日:2023年4月10日


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 世界遺産の韮山反射炉に行って来た。白い4本の煙突とエンジ色の鉄の格子模様が印象的。実は、最初は下田で作ろうとしたが、ペリー艦隊が来たため、急遽この韮山の地に変更され建設されたという。欧米等の列強諸国に対抗するため、軍事力強化の必要性に駆られ、蘭書片手に試行錯誤で鉄製大砲製作に挑戦ということとなったようだ。

 軍事力強化というと、ロシアのウクライナ侵攻など、嫌な方向に結びつきがちであるが、明治後期の反射炉の製作で日本に素晴らしい人材が育ち、日本の近代の産業、経済の発展の基盤がつくられたと思う。たとえ原子力でも、使い方の問題であって、核兵器で人を脅すのは問題外、安全な平和への利用であれば推進していけばいいと思う。

 この反射炉が完成した後、地域の人々が中心となって、保存や修理が幾度も行われたため、現在も素晴らしい威容を誇っている。地域の人々に愛され、大切にされていると感じる。

 韮山反射炉の少し奥の茶畑の上には見晴らし台がある。そこでは富士山と韮山反射炉の2つの世界遺産を同時に見ることができる。ちょうどテレビ局が取材していた。その人曰く「昨日は一日富士山は全然見れなかったけど、今日は最高」と。良い日に来れてよかった。

 

 
 
 

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 1月の寒いころ、春になったら旅行したいなぁと思って、インターネットで旅館を検索すると「伊豆の踊子」の宿が空いていた。この宿はその主人公の学生が泊まった宿らしい。急に暖かい伊豆へ行ってみたくなった。実は川端康成の「伊豆の踊子」を読んだことがなかったが、それから2回読んで旅行に備えた。とても爽快な気持ちになる小説だ。

 天気も良くて暖か、絶好の旅行日和。小説には出てこないが、浄蓮の滝をまず訪問。石川さゆりの「天城越え」を口ずさみながら、急こう配の階段を下りると、マイナスイオンいっぱいの滝。本ワサビの入ったアイスを食して一休み。しかし、さすがに帰りの急坂の登りは無口になっていた。

 そのあと、学生が踊り子の一行を待っていた天城峠の茶屋あたりを散策。ここから伊豆の踊子の話が始まる。このつづら折れの旧街道を学生は踊り子の一行との旅をしながら、挫折した心をよみがえらせる力をもらっうことになる。

 夜は湯ヶ野温泉、1月に予約した宿に宿泊。この宿では、踊り子が共同浴場から元気に手を振るのを見たり、一緒に碁ならべに興じたりした。本当に今、目の前で起こっているかのように感ずる。しかし、その共同浴場の上には、その後旅館が建ち、今は廃業のため工事の白いテントに囲まれている。実に痛々しい。伊豆の踊子から時間は十分過ぎるほど経ってしまったのだ。でも、やはり、学生と踊り子はその後どうなったのだろうとすごく気になる。

 

 
 
 
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